臨床研究者育成プログラムに期待する
東京大学医学系研究科研究科長
岡部繁男
医学部学生は人の命を救いたいという強い願いを持って進路を選択した場合が多いであろう。目の前にいる患者の苦しみを取り除きたい、その命を救いたい、という願いは尊いものであり、卒業後どのような道に進むにしてもその気持ちは生涯持ち続けてもらいたいと思う。一方で現代社会は複雑化しており、個々の医療において最良の選択をするためにはその背後に存在する様々な要因も理解する必要がある。その意味では医学部の卒業生は個別の医療において最善を尽くすことを目指すと同時に、最良かつ適切な医療を受けることを可能とする環境を形成するためにも働く必要がある。
このような個々の医療の前提となる社会環境の重要性を我々に厳しく示したのが今回のCOVID-19の蔓延である。重症患者を担当する医療従事者の努力に対して我々は最大限の敬意を払うと同時に、新興感染症に対する我が国のこれまでの科学技術政策、医療体制、ワクチン開発体制が適切なものであったのか、今後も予想される別の新興感染症にどのような備えをすべきなのか、といった問題を現役の医療従事者、そして将来日本の医療を担う人々が真剣に考えていくべきである。
これまでの医学の歴史を振り返っても、疾患に関連する基盤的な研究が進展し、知見が蓄積する時期と、それが実用的な診断・治療に応用される時期には大きな隔たりが存在する。第一次世界大戦時に流行したスペイン風邪の病原体は当時全く不明だったが、その後の約100年間の地道な研究により、スペイン風邪の病原体が特定され、ゲノム解読の効率化により変異ウィルスの同定も容易となった。今回のパンデミックにおいて、ワクチンの設計、製造、利用が前例のない速さで実現したのは、このような基盤的な研究の成果によるものである。また日本の社会が超高齢社会へと移行する中において、認知症の予防・治療は喫緊の課題である。これまで多くの製薬企業が認知症治療薬の開発を進めているが、第三相臨床試験において大きな治療効果を示した治療薬は存在しない。巨額の投資に対してその成果が見合っていないのが現状である。認知症治療への道のりが険しい最も大きな理由は、ヒトの脳の老化のメカニズムと加齢に伴う病理の本態が未だ捉えられていない所にある。
新興感染症の問題、認知症の問題は日本の社会にとって今後の対応が求められる大きな課題であり、対応を間違えれば国家自体の運命にも影響を与えることとなるであろう。またこうした現在既に予測することが可能な健康と医療に関連した問題に立ち向かう人材の養成も重要である一方、全く予測できていない課題が今後生まれる可能性も存在する。その意味では特定の疾患や臨床科に偏らず、様々な健康と医療の問題について深い造詣を持つ専門家が卒業生の中から生まれてくることを期待している。
東京大学医学部の学生には、医学部在学中から個別の医療行為に関する知識や技能を身に着けるだけでなく、より幅広い医学と医療に関連する経験を積み、現代社会の抱える問題を解決し、国民の健康と福祉の向上に貢献するという意欲を持ってもらいたい。そのような意味で、臨床研究者育成プログラムへの参加は学生にとって大きな意味を持つと考える。それぞれの分野において日々の臨床だけでなく、より広い観点で医学と医療に関する活動を活発に行っている先達と交流し、自らの視野を広げる事ができるからである。本プログラムは平成22年度から開始されて既に多くの先輩がこの活動に参加している。皆さんには本プログラムに参加し、臨床研究に関連する多様な体験をしてもらいたい。またそのような体験を卒業後のキャリアに活かしてもらいたいと心より願っている。